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決定論と自由意志・素人メモ

決定論と自由意志:哲学の木

映画「TENET テネット」に関する考察 (別記事で掲載) の中で、本作が決定論ベースであることに気付くも、哲学については全くの門外漢ゆえ、ウィキペディアや哲学関連のブログをつまみ食いして回った。その際、恐らく素人にありがちな疑問や思考が色々と浮かんできたのだが、さすが哲学、切りがない (笑)。そこで一旦、現時点の脳のスナップショットをメモしておく。

決定論と自由意志

決定論 (因果的決定論) については、運命論との違いを把握した時点で、個人的な感覚や見聞とも合致するし、すぐに正しそうと思えた。だから自分は非決定論者やリバタリアンではないのだろう。一方、決定論の議論に必ず出てくる自由意志については、決定論を認めたならそこに自由意志はないという考え方 (固い決定論) や、決定論と自由意志の両立を図る考え方 (両立論) があることを知った。自分も決定論に正しさを感じつつ、自分の思考は自由だと思えるので、両立論の支持者に近いのだろうとぼんやり考えていた。決定論的世界を描いた「TENET テネット」の中で、あえて無知を武器にして奮闘する主人公たちの生き方を両立論に肯定してもらいたくもあった。そうして自由意志や両立論についてネットの情報を読み進めたところ、以下のような感触を持つに至っている。

両立論に感じること

未来が本当に一本道かは置いておくとしても、過去の事象が様々な物理的因果に沿って一本道を辿ってきた可能性に関しては、現代科学を信じる立場であれば否定しきる方が難しい気がする (量子力学の扱いは不勉強…)。万物はあまりにも複雑に絡み合っているので、そのカオスに奇跡を感じることはあるが、どこを取っても大抵のことは科学的に説明がつくだろう。その点で決定論は比較的客観性が高そうに思える。

しかし、自由意志は、その出発点が「存在していて欲しい」「何からも独立した主体でいたい」といった人間の願望にあるように思える。土台として一段弱い印象である。そして両立論は、決定論を認めているにも関わらず、自由の定義をいじり回して自由意志という人間の願望を併存させようとしているように見える。自由の定義を決定論ありきで文章に書き下せば、それは色んな表現ができるだろう。だが今、自分が思考や発想する際に何も制約を感じていないなら、とりあえずそれが「自由な意志」を有する状態の現物ではないだろうか (洗脳下を除く)。自由意志の存在を信じたい理由のひとつに、その自由の自覚がある気がする。

縦並びの両立論?

自分は、現に自覚している自由な意志が、決定論という「土台の上」で実現されていても不思議じゃないし嫌でもない。井の中の蛙な面はあるにせよ、思考や行動において自由らしき自由を自覚できているのだから。その自由に「源泉性」がないことは承知だが、そもそも源泉的な自由を前提とするタイプの両立論はあり得るのだろうか? もしあっても、そこには何か天動説に似た危うさを感じるし、本当に何の文脈も持たず、無から湧く意思があるとすれば、それは自由というより狂気に見えると思う。

もう一つ、自由意志の条件として挙げられる「他行為可能性」に関しても、少なくとも決定論と同じレベルの概念的階層には同居できないだろう。決定論はあまりにもシンプルにすべてを説明しきってしまい、源泉性や他行為可能性といった概念が入り込む隙を与えない。実際、両立論者が挙げるという「他者からの強制力の有無」など、決定論と衝突しない自由の定義の議論は、すべて決定論という「土台の上」の話に見える。そこで一旦、軍配は「固い決定論」に上がっている気がするのだ。

つまり、自由を「決定論と横並び」に併存させる両立論というものは存在しなかったのだな、というのが今の自分の印象である。ただ、源泉性や他行為可能性はないものの、決定論の上に構築された人間の感覚としての自由はあっていいし、自分が自覚している自由がそれであることに疑問も不満もない。両立論者の両立論も、そんな「縦並びの両立論」なのではないのだろうか? なにせ哲学系の読み物は難しくて、はっきりそう書いている文章は見つけられていないのだが。

自由と責任について

もし我々が感じる自由が源泉性も他行為可能性も持たない場合、そこに責任を課せるのか、罰を与えられるのかという話が大きな議論としてある。自分は、本人や社会が感覚として持つ自由に責任を課すという、古来からのルールで問題ないと思う。これはなにも「昔からそうだったんだからそれでいいじゃないか」という話ではない。決定論の上で、人間という生き物の中に自由という感覚が作られたのだとして、責任という概念だってそこで作られたものではないか? そんな責任の概念を、それより下位層の概念、つまり人間という生き物そのものに被せようとするから不都合が生じるのではないか? 人間が感じる責任は、人間の感覚として作られた自由にだけ被せるべきもので、それ以上に崇高な何かだと捉える必要はないと思う。

固い決定論の支持へ

ここまでの理解からすると、現状、自分はいわゆる「固い決定論」の支持者にあたる気がしている。自由も責任も自覚しているが、それらは決定論の上に作られた感覚だという立場である (もしかしたら分類上はこれも両立論の一つかも知れないが、だとしたら両立という言い方は適切でない気がする)。

上の方で「TENET テネット」の主人公たちの生き方を両立論に肯定してもらいたかったと書いたが、それはもう諦めた (笑)。今は「決定論による支配を受け入れた後でも、人間は感覚として作られた自由と責任に従って行動するし、そこに意味を見出す生き物である」という捉え方に落ち着いている。

決定論の受け入れ方

ところで、決定論の主張を示す際に使われる「この世界はすべて決定されている」という言い回しは、どうも運命論と紛らわしくてミスリード気味な気がしている。IT畑にいた自分の感覚で言えば、アルゴリズムは決まっているが、プログラムの生成や実行は逐次的に行われるのだと考えるとしっくりくる。つまり、すべてが決定されていると言っても、その時が来るまで誰にも答えは見えていないし (時間の逆行が存在する「TENET テネット」の世界とは異なる)、ラプラスの悪魔も実在しない。日々の自分の行動は、自分が生まれ、自分が経験してきた因果の上で、自分の脳に起こることであって、それは別の誰かに監視や制御されるわけではない。言い換えに過ぎないかも知れないが、そう考えれば決定論も受け入れ易くならないだろうか?

リベットの実験

最後にベンジャミン・リベットによる実験とその解釈について。この議論はとても興味深い。人間の身体的動作は、それに先だってまず脳内に (1) 準備電位=「無意識的な意志」が現れ、その後に (2) 「意識的な意志」が生じて最後に (3) 動作が起こるという。当然、この結果は自由意志否定派を後押ししたそうだが、(2) の「意識的な意志」を脳の錯覚と断じたダニエル・ウェグナーの解釈も含めて、上述した自分の立場と一致するので結構しっくりくる。

当のリベットは、追加の実験を経て、「意識的な意志」は「無意識的な意志」が起こそうとした動作を「拒否」することはできるとして、自由意志の存在に希望を持たせようとした。さらにその「意識的な拒否」は、「意識的な意志」と違って「無意識的な意志」を必要としないという仮説まで用意した。

リベットがそこまで執念を燃やしたのは、もし自由意志がなければ責任も問えない世界になると考えたからだが、そこは自由と責任の捉え方次第ではないだろうか。責任という概念を、ウェグナーの言う錯覚としての自由と同じレベルにあるものと捉えればよいのでは? これは辻褄合わせではなく、決定論を受け入れる以上はそれが自然だと思えるのである。

ご清覧ありがとうございました。

TENET テネット(字幕版)

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  • ジョン・デイビッド・ワシントン
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